当神社の西側に位置する「生駒山」を御神体とする。歴史は大変に古く、元は産土の神である、伊古麻都比古神(いこまつひこのかみ)・伊古麻都比賣神(いこまつひめのかみ)の2神を祀っていたが、鎌倉時代に八幡系の5神が合祀され、計7神となっている。生駒山は正に奈良のシンボルであり、それにふさわしい非常に立派な社域を持つ。火祭りの際に使われる広場はあまりにも広大なため、訪れた際は子供がサッカーをしていて何とも微笑ましい雰囲気になっていた。
往馬大社の背後の森は奈良県指定の天然記念物となっており、その学術的価値も高い。往馬大社は火の神としても有名。ご神体の生駒山は、平城宮跡から見るとちょうど山のあたりに夕日が美しく沈み、正に「火=日」としての神の様子が体現されたような風景を眺める事が出来る。
●子供がサッカーに興じる広場 ●由来書 ●楼門へと続く石段
●拝殿・本殿 ●摂社・水神社 ●摂社・生駒戎 ●末社群
●生駒山と夕日 ●社務所の番犬サスケ君
ここを山辺の道ウォーキングの出発点にする人も多いだろうが、神社好きであればここで1時間は間違いなく時間を使ってしまうであろう。石上神宮の歴史は様々な所で述べられているので詳しくは書かないが、一言でいえば石上神宮は「物部氏の武器庫」であった。
また石上神宮には古来より「禁足地」という禁忌の土地がある。ここから古墳時代の出土品が発掘されている事から、物部氏の拠点となる以前より、何らかの重要な土地であった事は間違いない。
祭神は布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)、布留御魂大神(ふるのみたまおおかみ)、布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)で剣の神様である。どうりでこの神社、剛健、荒削り、どこか力強く男性的、正に「武器庫」「剣の神」にふさわしい雰囲気である。
古代大和政権の風情を感じるにはうってつけの場所、可愛く美しい鶏もお出迎えしてくれる。
当神社の祭神「大国魂大神」は大和の地主神である。土着の神と言ってもその権威は絶大であった。祟神天皇(在位期間:紀元前97年2月17日 - 紀元前29年1月9日)の時代には天照大神と共に、天皇の殿内に祀られていたとの事である。
さて山の辺の道を歩くと気付く事がある。石上神社や大神神社、檜原神社など、ビックネームの神社が東側山麓に連なるように建造されているのに対し、一方の大和神社はそれより西側の平野部に、でばって建造されているのである。そのため、当神社は山の辺の道のコースからはずれており、観光客がほとんど訪れないという憂き目にあっているのである。
どうやらこれには理由があるらしい。日本書記によると、当神社は元々の鎮座地が「穴礒邑(あなしのむら)」であったという。この村の場所はおそらく檜原神社山麓付近ではないかと言われており、その遷座時期も、平安時代から江戸の元禄年間まで諸説あるのが現状である。
なるほどそう言われてみるとこの神社、檜原神社や石上神宮などと違い若干カラッとした印象がある。ひょっとしたら遷座によって、他の神社が持つような深い土地の呪縛?が薄いためかもしれない。
ちなみに摂社・たかおかみ神社は祈雨神祭の全国総本社。山の辺の道から外れているが、見どころが多い神社なので、ぜひ立ち寄ってみてほしい。
石上神宮から北に山辺の道を進むと、ほどなく当社が見える。由緒書によると祭神は菅原道真、大山祇神との事で、どちらが元々の神様なのだろうか。
一見すると天神様ぽくない神社なのだが、よく見ると燈籠「天満宮」と書かれていた。拝殿はなく、階段を登った所にどうやら社殿のみがあるようだったが、あまりの豪雪のため断念…。当然ながら参拝客は誰もいなかった。
よくご存じのように「豊日」とは九州地方の事だが、関連があるかは不明。鎮座地でる「豊井町」の名前との関連も不明。でもかなりいい感じの神社です。
大神神社から山辺の道を北に少し進むと、人が一段と群がっている神社がある。狭井神社は大神神社の摂社で、大神荒魂神(おおみわのあらみたまのかみ)を祭神とする。
ご神水が湧き出ている薬井戸の回りには、容器を持った人々が群がって次々に水を汲んでいる。病気治癒の霊験あらたかな神社である。
檜原神社と同様、こちらの鳥居もれっきとした鳥居である。個人的には鳥居の原型のような雰囲気でかなり気にいっている。
大神神社から山辺の道を北に少し進むと、人が一段と群がっている神社がある。狭井神社は大神神社の摂社で、大神荒魂神(おおみわのあらみたまのかみ)を祭神とする。
ご神水が湧き出ている薬井戸の回りには、容器を持った人々が群がって次々に水を汲んでいる。病気治癒の霊験あらたかな神社である。
檜原神社と同様、こちらの鳥居もれっきとした鳥居である。個人的には鳥居の原型のような雰囲気でかなり気にいっている。
非常にこじんまりとしつつも綺麗に手入れされた神社である。「井上」とは井上内親王(717年〜775年)の事で、第45代聖武天皇の第1皇女。のち第49代光仁天皇の皇后となる。井上内親王は、若いころ伊勢神宮の斎王に卜定され、一時期を伊勢神宮の斎宮で過ごしたという興味深い経歴を持つ。
しかし彼女は、息子の他戸親王と共におそらくは政変に巻き込まれ、謎の変死を遂げたのである。このように神社の祭神になるという事は、その怨霊を鎮めるために祀られたのである。
奈良町にはこの他にも、恨みを持って亡くなった人を祀っている神社があちこちにある。「○○のたたり」と思いたくなるほど不安定で乱れた出来事がそれだけ多かったのだろう。
…入り口はどう見ても普通の民家、遠慮がちにふと覗くと奥の方に鎮座していらっしゃる。ならまちはこういう発見が何より楽しい。当社の由緒は不明だがご神木のイチョウは市の保存樹に指定されている…はずなのだがばっさりと伐採した跡が!
「白山神社」とは全国各地にあるが、石川県の白山比盗_社を総本社とする。祭神は白山比盗_で女性の神様である。
境内はこじんまりとしているがかなり手入れが行き届いている。しかしどことなく他人の家に勝手に入り込んでしまったような気まずさも若干感じるところではある…。
白毫寺は、715年、天智天皇の皇子の志貴皇の山荘を寺院にしたのが始まりとされている。高円山(たかまどやま)の麓にありいかにも奈良らしい「古刹」といった鄙びた雰囲気。
こじんまりとしながらも当寺院には見どころが多い。まず何と言っても眺望の良さである。奈良盆地や遠く生駒山も見渡せ、元々山荘であった事が納得の眺めである。また季節ごとの花も大変美しい。春には椿、秋には萩がしっとりと咲く。更に寺院の裏には石仏群があり、なかなか愛嬌のある表情の仏様が出迎えて下さる。
おにぎりとお茶でこの眺望を眺めながら休憩するのにぴったりである。ちなみに寺院周辺の雰囲気もまるで時間が止まったかのような趣きである。
白毫寺の坂を下ってほどなくの所にある神社。枚岡神社から祭神の天児屋命(あめのこやねのみこと)が、春日大社のある三笠山に遷る際に、「ちょっとここで一休み」とお休みになられた場所との事。三笠山までもう一息なのだが、我慢出来なかったのでしょう…。おそらく春日大社と時を同じくして創立されたと思われる。
面白いのは、本殿をきちんと20年ごとに建て替えて、伝統を守り伝えている所である。境内は本当に美しく整っていて、確かに住民の愛情がひしひしと伝わってくる。
ところでこちらの新旧の狛犬はとても愛嬌がある。昭和生まれの方はまるでロボットのような出で立ち。見ているだけでとっても癒される。